09.05/10 その79 漫画化もするみたいだし、「葉隠」について語ろうか。






 「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な武士道指南書「葉隠」がこのたび漫画化するそうな。
 ご存知の方も多いかと思うが、古今東西の名著を漫画化している「まんがで読破」シリーズのひとつとして、近日刊行予定だという。
 葉隠は武士とは如何にあるべきかを説いた書物であり、当然ながら物語ではない。ただ同シリーズはマルクス「資本論」や新渡戸稲造「武士道」などもオリジナルのキャラクターを立てるなどしてストーリー仕立てにしているので、おそらく葉隠もそういう方式で漫画化するのだろう。

 これ、個人的にかなり期待している。あのアクの強い書物がどのようにビジュアル化されるのか楽しみだ。
 冒頭にも挙げたあまりにも有名な一節――「武士道とは死ぬことと見つけたり」はまさに葉隠の極意とも言えるもので、今日の我々からすれば狂気そのものと言っていい。徳間書店から刊行されている、神子侃編訳「葉隠」からこれについて解説した部分を抜き出してみよう。


武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に子細なし。胸すわつて進むなり。(後略)

【訳】武士道の根本は、死ぬことにつきると会得した。死ぬか生きるか、二つに一つという場合に、死をえらぶというだけのことである。別段、むずかしいことではない。腹をすえて進むまでである。(後略)



 死ぬか生きるかの岐路に立ったら迷わず死を選べ、という。正気の沙汰ではない。そのような人生の重大事なら、熟慮に熟慮を重ねて決定すべきであろう。命を無駄にすべきではない――と、誰もが考えるはずだ。しかし、葉隠はそれを否定する。「胸すわつて進むなり」の後は、さらにこう続く。


図に当たらぬは、犬死などといふ事は、上方風の打上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにするは及ばざる事なり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。

【訳】「目的をとげずに死ぬのは犬死にだ」などというのは、上方風の思い上った武士道である。二つに一つという場合に、絶対見通しを誤らぬなどということは、できるものではない。もし理屈をつければ誰しも死ぬよりは生きる方がよいのだから、なんとかして生きていられるような理屈を考えるであろう。



 …もし、見通しがはずれた時に生きる方を選んでいれば、腰抜けと誹られる。死ぬ方を選んでいれば、たとえ犬死にと言われようと恥とはならない。ゆえに、武士たるものは死を選ぶべきである、という。
 命よりも誇りを重んじる価値観ともとれるが、葉隠が繰り返し説いているのは「主君への忠義を果たすために武士はどうあるべきか」ということである。「死ぬことと見つけたり」とは散り際の美学ではなく、むしろ生きる上での心構えとして語られている。
 この一節は「毎朝毎夕、命を捨てた心持ちでいてこそ武士道が身に付き、奉公をつくすことができる」としめくくられている。
 死にさえすればよいというわけではない。むしろ常に死ね。死に身であれ、というこの教えは凄まじいというほかない。

 ここだけ抜き出すと陰惨な印象を持たれるかもしれないが、葉隠は酒の席での振舞い方、恋の心得などについても述べており、今日においても通用するような処世訓がいくつも見られる。決して感情のない傀儡の如き人間であれ、と言っているわけではない。
 それなりに文化的かつ真面目な勤め人として日々を送りながらも、その内に常に「死」をはらんだ生き様こそ、葉隠武士の凄みといえるだろう。

 ただ説教臭いのは確かで、中には「近ごろの男はどうも女っぽくていかん」という団塊世代のオヤジの説教みたいな訓話もあり、堅苦しい面が少なくない。
 葉隠を漫画化するにあたり、そこらへんがどうなるか気にかかる。「武士とはかくあるべし」というスタンスを前面に押し出すと、同シリーズの「武士道」とかぶるんだよな…。



 ちなみに、葉隠をベースに書かれた小説がすでにあったりする。「一夢庵風流記(『花の慶次』の原作)」「影武者徳川家康」などで知られる隆慶一郎の最後の作品がそれで、その名も「死ぬことと見つけたり」という。





死人ゆえに自由、死人ゆえに果敢。




 佐賀鍋島藩の浪人・斎藤杢之助を主人公にした時代小説だが、随所に「葉隠」のエピソードを織りまぜている。例えば、冒頭で主人公・杢之助が行う「死」のイメージトレーニングがそれだ。
 朝、床の中で目覚めるか目覚めないかの意識の中で、己の死を心に描く。虎に食い殺される。溺れて死ぬ。毎朝幾通りもの死に方をイメージする。杢之助は毎朝寝床の中で死に、死人となって目覚める。葉隠にもある「死の鍛練」である。


毎朝毎夕、改めては死に死に、常在死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。(葉隠)



 すでに死人であるから、怖れるものは何もない。杢之助は浪人の身分であり、奉公人――勤め人としての武士ではない。彼は戦うことによってのみ忠義を果たす「いくさ人」である。
 しかし時代はすでに合戦など絶えて久しい泰平の世。戦闘以外にこれといって能のない杢之助は居候という身分に甘んじているが、鍋島藩のお家騒動をはじめとする事件に巻き込まれ――あるいは積極的に関わることになる。
 この時代、江戸幕府の老中・松平信綱は佐賀鍋島藩を天領(幕府直轄領)とすべく画策しており、鍋島藩は極めて危うい状態にあった。その綱渡りさながらに緊張の張りつめた状態において、死すら恐れぬいくさ人・杢之助はやがて炸裂弾さながらに危険な存在となってゆく。
 死人ならではの破天荒な行動で周囲の度肝を抜き、時には心胆寒からしめる杢之助だが、葉隠武士としての忠義を心の芯に持つ彼の行動は、無法極まりないように見えて、その実鍋島藩を救うように動く。この杢之助の活躍ぶりが実に痛快で面白い。

 そして杢之助と対照的なのが、彼の無二の親友である中野求馬だ。
 彼も杢之助同様、主君のために死ぬことを究極の目標に掲げている葉隠武士だが、その生き方は全く正反対と言っていい。立身出世に露程の関心も払わない杢之助に対し、求馬は出世して藩の重職に就くことを第一の目標としている。これは彼の父の言葉が大きな影響を与えている。
 求馬の父・中野将監は藩の家老という重職にありながら主君の不興を買って切腹を命じられる。まだ少年だった求馬はそれを嘆くが、将監は「自分は無念のうちに死ぬのではない。栄光に包まれて腹を切るのだ」と語る。

「武士の本分とは、殿にご意見申し上げて死を賜ることだ。だから武士たるものは、全力を尽くしてその地位に登るために励まねばならぬ」

 父は、まさにその言葉通りに死んだ。こういう死に方のできた自分は、武士としてこの上ない幸せものだ、と笑いながら。そして、求馬もまた時がたつにつれ、父のような死に様を目指し立身出世に血道をあげるようになる。


奉行人の至極は家老の座に直り、御意見申上ぐる事に候。(葉隠)


 ある意味、求馬こそが葉隠の説く「武士」の模範とも言える。
 ただ、葉隠には「狂気のススメ」とでも言うべき苛烈な精神性が内在しているのも確かだ。極意である「死ぬことと見つけたり」がまさにそうだし、漫画「シグルイ」のタイトルとなっている「武士道とは死狂ひなり。一人の殺害を数十人にて仕かぬるもの」という一節にもそれが表れている。

 「いくさ人としての葉隠武士」である斎藤杢之助と、「奉公人としての葉隠武士」である中野求馬は、対照的でありながら「葉隠」の精神を体現する一対と言えるだろう。 小説「死ぬことと見つけたり」はこの二人を中心に、娯楽作品としてみごとにまとめている。

 …いや、まとまるはずだった、と言うべきか。
 この作品、一応上下巻構成ではあるが、作者の急逝によって途中で終わっており、物語の結末は下巻に断片的なプロットが収録されているのみである。
 管理人の中では「男坂」「猛き龍星」につぐ未完の傑作となっているが…いずれ誰かこの結末を補完してくれないものか、と願わずにはいられない。
 待てよ。どうせならそれと平行して原哲夫に漫画化してもらうとか? いや、それよりも「覚悟のススメ」で葉隠を引用しまくった山口貴由がいいか? うん、夢はふくらむね! ふくらみきったら後は萎むだけだけど!


追記1:
 アクション面から「死ぬことと見つけたり」を語ると、斎藤杢之助のガンファイトが冴えている。彼は刀・剣術より鉄砲に強いこだわりを持っており、劇中でも島原の乱における鉄砲の達人・下針(さげばり)金作との対決や、獣を相手にした狩り(というか果し合い)、遠町筒(狙撃銃)による狙撃などのエピソードがある。
 それらの見どころは全体の割合として多いわけではないが、ガンマン武士としての杢之助の魅力を引き出している。


追記2:
 「死ぬことと見つけたり」上巻の序文に、隆慶一郎自身による「葉隠との出会い」が書かれているのだが、これがまた面白い。
 学徒動員で徴兵されることになった彼は、そのころ耽溺していたランボーの詩集「地獄の季節」を手放し難く、なんとしても持っていこうと考えた。無論、外国人の詩集などが見つかれば没収されるのは目に見えている。そこで彼は、陸軍の将校が愛読しているという「葉隠」三巻を買い求め、そのうち中巻の中身を取り外し、代わりに「地獄の季節」をはめこんだのだ。
 しかしそのままだと、さんざん読み込んで手垢のついた「地獄の季節」部分と、新品の「葉隠」の差が目立ちすぎるため、仕方なく葉隠部分も読み込むことにしたのだという。
 その後、紆余曲折を経て「死ぬことと見つけたり」を執筆するに至るのだが…この「地獄の季節」にかけた執念は見習いたいものである。


追記3:
 神子侃編訳「続・葉隠」に、日常に表れる葉隠的狂気として「字の書き方」が紹介されている。「紙いっぱいに一文字を書くつもりで、紙を破るくらいの気合いで書け。字の上手い下手は専門家にまかせればいい。武士はもたもたしないことだけ重視すればよい」というものだ。


紙一ぱいに一字書くと思ひ、紙を書き破り候と思ふて書くべし。よしあしはそれしやの仕事なり。武士はあぐまぬ一種にて済むなり。(葉隠)



 こういう意味不明な男らしさ、嫌いじゃないぜ。
 なんかこう、コミカルでありつつ愛しさみたいなものを感じるね。今回の雑文を読んで葉隠武士に共感した人がいたら、今日からPCで文字を打つときキーボードを叩き壊さんばかりの勢いで打鍵してはいかがだろう。
 いや、管理人はやらんけどね。指が疲れるもん。


追記4:
 上でちらっと書いた、葉隠の「恋愛の心得」だけどさ。もうオチ読めると思うけど、これ男色の心得です。
 葉隠にも男女間の話はあるが、不義密通とかそういう話題がほとんどらしい。
 あ、また思いついた。いっそ開き直ってショタ系萌え漫画「はがくれっ!」ってのはどうだろう。副題に「萌えて学ぶ武士の恋愛心得」とかつけてさ。きっと売れると思うんだよなー。「シグルイ」の涼之介に萌えてる層とかに。
 管理人は買わんけどね。マッチョの方が好きですもの。…いや、ホモじゃねぇよ! 「ああ、やっぱり…」みたいな顔してんじゃねぇ!


参考資料:神子侃編訳「葉隠」「続・葉隠」徳間書店



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