映画[1]へ  
15.07/02 その228
兇獣は荒野を奔る――マッドマックス 怒りのデス・ロード





暴力!




スピード!




バイオレンス!



 男子の三大欲求を120分に山盛り詰め込んだ最狂にゴキゲンな世紀末爆走映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。みんな観た? もう観た? 管理人も観てきました。コレが観れたら今年はもう映画観れなくてもいい位の勢いで観て来ましたよ。当たり前だよね。もしマッドマックスをスルーして「『海街diary』を観てきました」なんて更新をしてたら、もう管理人は死んでいて管理人を騙る何者かがこのサイトを更新していると思って間違いない。そのくらい重大な映画だった。

 先に結論から言うと、期待通り最高。内容としては『マッドマックス2』(1981)ラストのカーチェイスを120分に引き伸ばした上でエンジンを増設してニトロを積んだような代物で、「悪党が凶悪なマシンで荒野を爆走」というキャッチーな画だけでほぼ全編が構成されている。映画のどこを切り取ってもそういうシーンが飛び出てくる、爆走金太郎飴とでもいうべき映画だ。 「ノンストップアクション」という謳い文句を本当の意味で実現した映画ともいえる。

 ところでこの映画は「狂気(MAD)」を売り文句にしているが、個人的には「爆走」こそキーワードだと思う。個性豊かにもほどがある凶暴なマシンの数々はその象徴だが、悪党たちのスタイルや戦術、登場人物たちの生き様やドラマ、内包するテーマ、その全てが荒々しい走りと融合している。
 というわけで、「爆走」というエッセンスを念頭に置きつつ映画の魅力を語ってみたい。


●爆走する獣たち
 本作はマッドマックス2(以下、旧作)以降の模倣作をあっさりと飛び越して「世紀末モノのアクション」の頂点に躍り出たわけだが、その要因のひとつは凶暴なカスタムマシンの存在だろう。





 とにかくこの荒々しく暴力的な――もっと言うなら頭の悪いカスタムを施されたモンスターマシン達がこの映画の肝であり華であり骨格である。世界観そのものといってもいい。
 ガソリンが奪い合いになるほど貴重なはずなのに燃費のクソ悪そうなクルマばかりじゃねーか! という突っ込みが脳裏をかすめるが、そんなものはコンマ秒で背後にスッ飛んでいく。武装集団が跋扈する暴力の荒野をドライブ&サバイブするのに、これよりも最適なカスタマイズがあるだろうか? いや、ないね。絶対無いと言い切れるね。
 自由を求めて盗んだトレーラーで走り出すもよし。死をも恐れぬ兵隊たち“ウォーボーイズ”を乗せて追撃するもよし。「力こそパワー!」をこれでもかというほど全身で体現した“たたかうくるま”の数々が荒野を爆走する。こんなに胸が躍る光景があるだろうか?

 こういうマシンが集団で走っているだけでも絵になるが、武装車両同士の戦闘を前提にした独特の戦術・ギミックが多数登場するのも観ていて楽しかった。超楽しかった。
 例えば長いポールの上に人が登ってユラユラ揺れているという画は、予告だと「何この大道芸?」って感じだったが、実際には敵車両を頭上から急襲するために使われている。地上を走る車両にとって基本的に頭上は死角になるため、なるほど理に適っているな!という気分になる。




 またウォーボーイズたちの使う爆弾つきの槍(サンダースティック)は銃やボウガンにはない野蛮さがあふれていて、彼らのスピードを恐れぬ肉弾戦のボルテージを大いに上げている。





 彼らのみならず他の武装集団も「高速走行する車両をいかに無力化するか」という対車両戦闘に特化しており、その戦術の数々がバトルアクションとしてオリジナリティあふれる魅力を噴射している。
 パンフレット記載のインタビューによれば、ジョージ・ミラー監督は本作の世界を構築するに当たって歴史や登場する技術について相当細かいところまで練り上げたらしい。一見して荒唐無稽なアクションシーンにも一種の説得力があるのは、そういう裏付けがあるのも一因だろう。銃が貴重な世界で武装車両同士が戦うとどうなるかをとことん突き詰めて考えられている。単なるアクションのアイデアというより、ひとつの戦闘規範を作ったといっても言い過ぎではないだろう。


●爆走する物語
 本作のストーリーは、自由を求める者たちの挑戦という普遍的な物語だ。
 水と食糧を独占する暴君「イモータン・ジョー」に仕える女戦士フュリオサは、ジョーの「子産み女」として囲われていた5人の女たちを連れ、戦闘輸送車両「ウォータンク」を奪って脱走する。フュリオサの裏切りを知ったジョーは激怒し、女たちを奪還するため“ウォーボーイズ”を率いてその後を追う。彼らの「輸血袋」として囚われていたマックスも追撃戦に引き出されるが、戦闘の渦中で脱出に成功。その後はフュリオサたちと行動を共にすることになる。

 男女比だけでみるとマックス&フュリオサ+5人の妻たちというFF5さながらのハーレムパーティーなのだが、当然ながらそういう方向の話ではない。ストーリーの中心となるのは「自由を勝ち取ろうとする女たち」であり、マックスはそのサポート役、用心棒に近い位置付けだ。
 一応はロマンスもあり萌えキャラもいるのだが、総じて台詞は少なめであり(マックスは特に少ない)、そもそもアクション抜きのドラマ部分が極端に短い。説明的な描写もごくわずかだ。
 上映時間は120分と旧作(91分)より長くなっているのに、ドラマや説明の比率はさらに少なくなっている。これはアレかね? 世紀末大好きな人間は基本アホだからストーリーとかいらないってわけか? と思いそうになるが、驚いたことにこれだけ切り詰めてもきっちりストーリーは成立している。

 残忍な世界から逃れて安住の地を求めるという大筋があり、その中心軸となるのがフュリオサだ。そこにマックスやウォーボーイズのひとりニュークスといったキャラクターたちが絡んでくる。最初は呉越同舟だった彼らは次第にひとつの目的で結ばれていく。
 そして彼らの爆走のベクトルは、ある出来事を境に「逃走」から「戦い」へと変化する。楽園を求めての逃避行ではなく、戦って未来を勝ち取るために走り出すのだ。

 ネットの感想では「ストーリーは無いようなもの」という評が散見されたが、そうではない。本当にストーリーがなかったり薄っぺらだったりしたら、観終わった後に「最高だった」という感想は出てこないものだ。次から次へと飛び込んでくるアクションシーンが強烈なインパクトをもって脳に刻まれるのは、単にアクションの質の高さだけに起因するものではない。登場人物たちの戦いに無意識に感情移入しているからこそだ。

 ストーリーで引きつけるタイプの映画ではないのは確かで、ケタ外れの質量をもったアクションシーンにストーリーが埋没気味になることはある。だが、それでもバーベキューの鉄串のように全体を貫きまとめ上げるのが、本作におけるストーリーの役割だ。
 ジョージ・ミラー監督の「私は『マッドマックス』を、いわば“ビジュアルミュージック”のようなものだと捉えている」とインタビューで語っているが、それを成立させるためにこのようなストーリーテリングを採用したのだろう。アクション映画にこんな作り方ががあったのか、と今更ながら驚かされるのだ。

 ビジュアルミュージックとしてドライヴ感を突き詰めた映画ではあるが、一方でジェンダー的な観点からの評論があったり、普遍的な神話との類似性を指摘するレビューがあったりするのも面白い。「頭を空っぽにして楽しめる映画」と言われつつ、その内面には驚くほど豊かな物語が脈動している。おそらく2度、3度と繰り返して観るたびに新たな発見があるのではないだろうか。


 ただ、管理人は「頭を空っぽにして楽しめる」という部分こそ一番に評価したい。
 そう評される映画はいくつもあるが、その多くは観る側の妥協で成り立っている。脚本の穴や作りのチープさ、演技のまずさに目をつぶり、観ていて引っかかるような部分をあえて無視する。あるいは観る前からハードルを下げておく。そうやって手心を加えた上で面白さを見い出すのが「頭を空っぽにする」ということだった。
 しかしこの映画は、半ば強制的に頭を空っぽにさせられる。シンプルながら力強いストーリーによって方向づけられた諸々の要素が、圧倒的な奔流となって物語を俯瞰しようとする意識すら押し流してしまうのだ。
 人間とマシンの咆哮。舞い上がる砂塵と炎。血とオイルの臭い。並走する破壊と死。前へ進もうとする意志。それらに共鳴するうち、いつかしか観客は神の視点を持つ観察者ではなく、目の前で起きる出来事の目撃者へと引きずり下ろされる。そこに俯瞰する視点はない。ただ登場人物と共に震え、猛り、走るだけだ。
 観終わった後、まだ頭蓋が残響で震えている状態では「なんかよく分からんけど、スゴかった」という感想しか出てこなくても無理はない。それが「この映画を観るとIQが下がる」と言われる所以だろう。
 
 伏線など細部を見落とさずにストーリーを理解し、テーマを汲み取ることができる人は映画を観る能力が高いと思う。ただこの映画に関して言えば「ストーリーとかさっぱり覚えてねーけど、最高だったぜ!!」という人間こそ、最もこの映画に強くシンクロしたと言えるかもしれない。それもこの映画――最高にブッ飛んだビジュアル・ミュージック――の楽しみ方だ。


●新たな世紀末
 「社会が不安定な時期にはゾンビ映画が多く作られる」という話を聞いたことがある。それは閉塞した社会に倦み疲れたリセット願望だとも言われるが、この点では世紀末荒野も似た属性を備えていると思う。『怒りのデス・ロード』がヒットした理由のひとつには、社会の倦怠感に風穴を開けるような作風が受け入れられたという面も少なからずあるのではないだろうか。
 誰かが舗装した道ではなく、荒野に自分だけの道を切り拓くこと。この普遍的なロマンが、社会の枠組みが吹っ飛んだ暴力の荒野ではとりわけ眩しく輝く。

 まぁ理屈はどうでもいいんだよ! ゾンビ映画を駆逐する勢いで世紀末映画増えろ! というのが管理人の言いたいことの全てだ!
 文明のカケラを残しつつも弱肉強食がまかり通るワイルドな世界の魅力を改めて世に知らしめていただきたい。旧作から35年、もはや使い古されたと思われていたこの舞台がまだまだポテンシャルを秘めていることを『怒りのデス・ロード』は世に知らしめた。後はフォロワーが現れるのを待つだけだ。

 日本では『北斗の拳』という不朽の名作があるが、そろそろ次世代の世紀末モノが出てきてもいい。社会に閉塞感が蔓延する今こそ、そういう作品が求められていると管理人は心から信じている。
 日本では『ライブライブ!』の方が興業収入高かったという話もあるが……うーん、まあいいや。両方観に行け! どっちもライブシーンあるから似たようなもんだ!




ふたばで拾ったコラ画像


 軍団を鼓舞する役を担っているであろうこの「ドゥーフ・ウォリアー」(通称ギター男)、ストーリーに絡むわけでもなく台詞もないが、ものすごく印象に残る。瞬間的なインパクトではおそらく劇中最強だろう。
 実は先天的に盲目であり、音楽家だった母が殺害された後にイモータン・ジョーに拾われたという過去の持ち主である。ジョーが発見した時に彼は母の生首を抱えており、現在彼がかぶっているマスクはその皮で作られているそうだ。
 …という設定は劇中では全く語られないので、観る者の印象は大体「よくワカんねぇけどとにかくすげぇ」というものに落ち着く。

 彼はイモータン・ジョーの支配システムに奉仕する部品に過ぎないけれど、その一方で「音楽」というものが人間にとっていかに不可欠なものか全身で表現しているようにも見える。
 なんというか、この映画の登場人物はみんな全力で生きてるって感じなんだよな。暴力的な映画ではあるが、観終わった後の爽快感はそんなところにも起因していると思う。



追記:
 10/1に日本発売予定のゲーム版『マッドマックス』。前から楽しみにしていたではあるが、映画を観たことによりものすごく楽しみになった。正直なところオープンワールドアクションとしてはそこまで個性的でもなく、予定調和的なつくりだと思っていたのだが、実は映画の隙間を埋めてマッドマックスワールドを拡大する、極めて意義深い作品だと思うようになった。
 それというのも、映画本編の舞台はかなり狭いのだ。イモータン・ジョーが支配する「砦」の他にも「ガスタウン」「弾薬畑」といった武装集団の支配地はあるが、劇中では名前しか出てこない。登場人物たちのやり取りもアクションも、大半はウォータンクの中あるいは周辺で行われるという限定っぷりだ。
 それも映画のスピード感を上げる工夫には違いないが、映画にハマればもっとこの世界について知りたくなるのが人情というもの。砦の他にどんな街があり、どんな人間が暮らしているのか? その好奇心をこのゲームは満たしてくれそうだ。