13.05/27 その189 Bioshock:Infinite――提言:萌えFPSが目指すべきもの





 『Bioshock:Infinite』ノーマルでクリアしました。
 海外のレビューサイトで満点を連発した傑作とは聞いていたが、実際プレイしてみると…ちょっとアレだったな。雰囲気こそ良いものの戦闘はやたらストレスがたまるし、ストーリーはラストが急展開すぎて置いてけぼりになり、スタッフロールが始まった時には「え、終わり!?」と唖然となった。
 まぁストーリーについては管理人の頭(空薬莢しか入っていない)には難しかったというだけだろうが、スタッフロールをスキップするとその後の重要なシーンまですっ飛んでしまうのは如何なものかと思う。今からプレイする人はスタッフロールが始まったらコントローラーをそっと床に置き、ついでに猫もトイレに閉じ込めておいた方がいい。

 不満点はさておき、本作はCOD4以降の「ストーリー&演出重視のFPS」として高い評価を得ているのは間違いない。今現在もストーリーに関して様々な考察がなされており、ゲームという媒体におけるストーリーテリングについて、興味深い一例を提示していると思う。

 それに加え、個人的にはもうひとつ大きな意味をこのゲームに見出している。管理人が数年前からずっと待ち望んでいた――管理人だけではない、日本のFPSプレイヤー1億2千万人が渇望していた「可愛い女の子とキャッキャウフフできる萌えFPS」に、現時点で最も近い作品なのだ。日本のメーカーが作るべきFPSとしてこの方向性を提唱してきたが、ついにそっちまで海外に先を越されてしまった。

 というわけで今回は「萌えFPS」という観点からBioshock:Infiniteの問題点と可能性を探っていくが、「Bioshockは萌えゲーじゃねーんだよ死ね」という人にはつまらない話になると思う。そういう人はPCの電源を落とし、猫のノミでも取っていた方が有意義だろう。


↓いつもの項目別リンク
・私をパリに連れてって
・彼女がドレスに着替えたら
・扉の数だけ抱きしめて




■私をパリに連れてって

 最初にエリザベスという少女についておさらいしてみよう。
 空に浮かぶ都市コロンビアに幽閉されている少女で、その生い立ちや幽閉されている理由など、全てが謎に包まれている。謎を覆うヴェールが取り除かれるのは物語の終盤だが、1人の女の子としてのエリザベスは出会った瞬間から鮮やかに色づいていく。

 不法な侵入者(プレイヤー)に、本をぶつけて撃退しようとする気丈さ。
 外で見るもの全てに興味を示し、まだ見ぬパリに思いを馳せる無邪気さ。
 過酷な戦闘の中でもプレイヤーを助けてくれる健気さ。
 そして自身の過酷な運命に立ち向かう強さ。

 運命に流されるままの姫君ではなく、かといって縛鎖を自力で引きちぎる女傑でもなく、あくまでも少女のまま、強く可憐なヒロインとして物語を牽引していく。
 プレイヤー演じる探偵のブッカー・デュイットはこの少女をコロンビアから連れ出すという依頼を受け、彼女を巡る運命の奔流に巻き込まれていくわけだ。

 このようにエリザベスのヒロイン力は、“シナリオ的には”及第点を余裕でクリアしている。しかし“ゲーム的には”少々残念なところがある。ヒロイン性がゲームデザインの中に落とし込めていないと感じるのだ。


■彼女がドレスに着替えたら

 ゲーム的に残念と書いたが、エリザベスは性能的にはとてもハイレベルだ。地形に引っかかったりせずにブッカーの後をちゃんと付いてくるし、どこからかお金を拾っては渡してくれ、またロックピックで鍵開けにも活躍する。
 戦闘では直接戦うことはないが、随所で不思議時空(ティア)を開いてドラえもんばりにお助けギミックを出してくれるし、こっちがピンチになると見るやヘルスキットやソルト瓶や弾薬などをよこして援護してくれる。ブッカーが戦闘不能になれば注射で復活させてくれるし(その際に所持金をくすねている疑いがあるが)、さらにエリザベス本人は敵から攻撃を受けないので、こちらは後顧の憂いなく戦闘に専念できる。お前は俺のお袋か? っていうレベルでお世話になりっぱなしだ。

 しかし、この至れり尽くせりっぷりが逆にヒロイン度を損なっているのだ。
 ゲームを通してプレイヤーは数えきれないほど多くのものをエリザベスから与えられる。だが、逆にプレイヤーが与えられるものは何もない。ゲーム的に彼女は一切の助けを必要としない無敵キャラだからだ。こちらはただ与えられるだけ――。
 そういえば餓狼伝にそういう話があったね。


 与えることだけを一方的に――
 すべてを拒否し、差し出すことだけを一方的に――
 増え続ける愛
 増え続ける愛――


 ママ、どうしてッッ もちろんプレイヤーをイラつかせない高性能なAIであることは大いに褒めてよい。しかし語弊を怖れず言うなら、ヒロインは手のかかる子であって欲しかった。
 飛び交う銃弾から身を挺して守ってやりたかったし、スカイラインを移動する際には片腕で抱きかかえてやりたかった。
 時には足を引っ張られてイラッとしても、お互い支え合い補い合うことで結びつきは強くなる。そうあってこそ、プレイヤーの中にもエリザベスへの熱いパッションが生まれるのだ。「この子を守りたい。天空都市の呪縛から解き放ってやりたい」という想いが。


 今ここを読んでる諸兄の言いたいことを当ててみせようか。

 「そんなの面倒なだけだろ。ベビーシッターじゃねぇんだよボケ」

 ってんだろ? まぁ言わんとすることは分かる。仮に彼女が戦闘でダメージを受ける設定にすると、プレイヤーの目の届かないところで勝手にくたばる危険性が出てくる。聞くところによればバイオハザード5のヒロインがその典型だったそうで、それに煮え湯を飲まされたプレイヤーはエリザベスという「手のかからないヒロイン」を諸手を挙げて歓迎したことだろう。
 管理人だって戦闘に水を差すようなヒロインなど願い下げだ。もしエリザベスがそういうタイプだったなら、彼女を「パリ行き」と書いた木箱に詰めて下界に蹴り落としていたと思う。
 しかし、萌えFPSなら「戦闘で足を引っ張らないよう無敵キャラにする」という逃げではなく、何かしらのリスク&リターンを組み込んで「手間がかかるけどそれが面白い」というシステムを考案すべきだった。そもそもBioshockは萌えゲーじゃないって? だから仮定の話だよ。分かれよ。


■扉の数だけ抱きしめて

 根底にある問題は、プレイヤーが能動的にエリザベスからリアクションを引き出す手段がほぼ存在しないことだ。顔面に銃口を向けると「やめてよ!」「こっち向けないで」「向ける相手が違うでしょ」と怒って射線を外すが、それくらいではないだろうか。あるいは、女子トイレに入った際に「…私はここで待ってるわ」と軽蔑したようなお言葉を頂けることか。

 ついでに言うと、彼女の言う「私、意外と博識なのよ。本と時間だけはいくらでもあったから」という特徴にもプレイヤーとして介入したかった。年長者の経験としてこの世界の理不尽さや、生きることの喜びや悲しみについて彼女に教えることができれば、どんなに素晴らしかっただろう。
 もっともゴミ箱から拾った食べ物で体力を回復するブッカーを見ていれば、生きることの悲しさについては十分理解できると思うが。
 つまり、リアクションが大事だよねということだ。インタラクティブ(双方向)性こそ他媒体と比較してゲームの最大の長所なのだから。

 以前、ChokePointにて「カットシーンがゲームに与える悪影響とは?」というIGNのコラムが翻訳されていた。その内容はBioshockとは関係ないが、その中で「プレイヤー自身がゲームプレイの中で作り出す物語」の重要性に触れていた。
 ここで言う物語とはプレイ中に心を揺さぶられた体験すべてを指しているが、最後の一文はゲームにおける楽しさの本質を見事に表している。


カットシーンは没入感があり、感情に訴えかける道具になりえるが、デベロッパーに忘れないでもらいたいことがある。ゲームにおいてプレーヤーの脳裏に深く刻まれる物語というのは、往々にしてデベロッパーが押し付けてくるものではなく、プレーヤー自身が作り出した何百万と存在する新しい物語なのだ。



 恋愛シミュレーションの「ときめきメモリアル」を思い出して欲しい。あのゲームにドラマチックなラブストーリー的シナリオなど存在しなかったが、プレイヤーはパラメータ管理という手段を通じてゲーム中のヒロインとアクション:リアクションの交換を行い、その過程でプレイヤーの数だけの恋愛ドラマが紡がれていった。それこそがプレイヤーが作り出す「物語」であり、ときメモがヒットした要因だ。


 当たり前すぎて忘れているかもしれないが、ゲームの中のヒロインが他媒体のヒロインよりも勝っている点は、インタラクティブ性があることだ。

 同じことはゲーム中の敵にも言える。様々な手段で脅威を与えてくる警官やボックス・ポピュライ、その他の悪党連中に対し、どのような手段で立ち向かうかがアクションとリアクションの交換なのだ。マシンガンで蜂の巣にするか? ライフルで遠距離から脳天を撃ちぬくか? ポゼッションで洗脳して同士討ちさせるか? それともスカイフックで首をねじ折るか?
 こういったコミュニケーションを通し、プレイヤーは悪党どもとの戦闘に喜びを感じるようになる。ときメモのヒロインたちに対して抱く感情とはちょっと違うかもしれないが、「ゲームの面白さ」とはそういうことだ。


 話がそれたが、まとめるとエリザベスにもプレイヤーが介入できる要素が欲しかった、ということにつきる。『Bioshock:Infinite』は密度の高い物語が展開されるが、エリザベスに関してはコミュニケーションが不十分なため、プレイヤーが物語を作る余地がほとんどない。
 この問題は本作の象徴的なキャラクターであったはずの「ソングバード」にも当てはまる。彼(?)とは劇中で何度か印象的な出会いをするが、そのほとんどはイベントシーンであり、プレイヤーは自身の知恵やテクニックを駆使して戦ったり逃げ回ったりするわけではない。そのコミュニケーションの欠如がソングバードの印象を物足りないものにしている。

 本作ではプリレンダリング・ムービーは全く使われていない。使ってなかったと思う。なかったんじゃないかな。とにかく「ムービー」と呼べるようなプレイヤーを置いてけぼりにするパートはごく少ない。しかし、アクション:リアクションの交換を後回しにして演出を重視するとしたら、その行きつく先は所謂「ムービーゲー」と何ら変わらないのではないだろうか。
 これは極論であってBioshock:Infiniteへの直接的な批判ではないが、もう少し自由度を、プレイヤーが介入できる余地を広げて欲しかったとは思う。それを高密度なストーリーと両立させるのは大変かもしれないが、ゆくゆくはその境地を目指してほしいものだ。



※過去の萌えFPS更新
雑文その173・「日本でミリオン出せるFPSはまだか?」
雑文その151・F.E.A.R.3――たとえ神のようにはなれなくても
雑文その148・何で和ゲーマーはAK-47を過大評価してるのか?
雑文その134・「JFPS/JTPSを考えるスレ」……萌えふぴーえすはまだ?
雑文その128・Left 4 Dead 2――呻吟・イン・ザ・レイン
雑文その76・FPSで萌え漫画作ろうぜ!
雑文その45・無機物に萌えるFPS「PORTAL」



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